日本史の未遂犯 ~明治維新の元勲・板垣退助を襲撃した小学校教師~
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~スピンオフ【相原尚褧】
板垣退助を「国賊」と言う
相原は政党や政治団体に加盟することなどはしなかったものの、政治上の理念としては「漸進(ぜんしん)主義」を掲げていました。漸進主義というのは、緩やかな社会改革を是とする思想であり、対義語は「急進主義」になります。
当時、急激な社会改革をもたら急進主義派の中心人物となっていたのが「板垣退助」でした。
板垣退助は1873年(明治6年)に「征韓論」を巡って政争に敗れて政府を追われて下野(げや)した(明治六年の政変)ものの、翌年に民選の議会の解説を要求した「民撰議員設立建白書」を提出し、民主主義を理念とした政治団体の「立志社(りっししゃ)」を故郷の高知に創設しました。
これが国会開設や憲法制定を求める「自由民権運動」が全国で活発となる大きなきっかけとなり、板垣退助はその主導者として活動を牽引していきました。
相原が2ヶ月の休職を始めた1881年(明治14年)の10月12日には、ついに明治天皇により「国会開設の詔(みことのり)」が出され、10年後に国会を開設することなどが表明されました。この勅諭を受けて、6日後の10月18日に急進派により「自由党」が誕生します。この初代党首に就任した人物こそ、板垣退助でした。党名の通り“自由”を掲げる自由党は、民衆の強い支持を受けていました。
ところが、相原は板垣退助を“国賊”であると考えました。
板垣退助は「明治六年の政変」で政府を追われる以前に要職に就いていた時には“自由”や“民権”、“国会開設”などを表明することはありませんでした。しかし、政府を追われた後に「自由民権運動」を牽引して、政治の表舞台に再び登場しました。
相原はこれを受けて「自由民権運動」は、民衆のための政治活動ではなく、板垣自身が現政府への鬱憤を晴らし、再び己が権力を握るための手段であると捉え、板垣退助は“自由権利を私物のごとく”した“奸雄”であり、“誠の愛国勤王の人にあらざる”と見なしたのです。
「板垣氏が久しく世に立たしむる時、いかなる大害を引き起こさんも図り難し。板垣氏を殺して、社会の禍乱(からん)を未萌(みほう)に防がん」
板垣退助を弑逆することを決意した相原は、襲撃の6日前にあたる1882年(明治15年)3月31日の夜、弟妹と両親に宛てた遺書を認めました。
「我事今や国のために、賊を誅し死す。
我無き後は、御両親様を爾等(おれら:弟妹たち)、協力して以って、孝養すること尚褧一世の願いなり。他は述ぶるに遑(いとま)なし。
十五年三月三十一日 夜認 尚褧
尚宝殿
尚友殿
秋どの
捨どの
尚春殿
隆どの」
「今般、小子尚褧、勤王愛国の情、腹中充満するところより、国賊板垣退助を天誅す。
然(しか)れども上は、国の大典を犯し下しは御両親様を孝養することはあたわず。
実に不孝の罪、謝するに辞なし。小子の如き度々御苦労を相掛くる者、誠に有るにも無きに優るべし。涕泣(ていきゅう)頓首(とんしゅ)。
十五年三月三十一日 夜認 尚褧拝
御両親様
膝下(しっか)」
この家族への遺書と共に、病気と称して三日間休暇を取っていた職場の横須賀小学校の関係者に宛てた手紙を書いています。
「過日、病気と称し三日三夜、この大事を思考せしなり。その罪を恕(じょ)せよ(許せよ)。爾来(じらい)(これ以降は)、当校の盛大ならんこと小生の願いなり。また、別封は懸父への書き置きなれば、幸いに伝へたまわらんことを。
三月三十一日 夜 尚褧
服部幹樹 吉田江門 両君御中」
さらに、そこには勤王の強い志が込められた辞世の句が認められていました。
「春風の け(今日)降る里に帰るのは 生きるも同じ 国のためかな」